会員さまの寄稿 独身(70代以上 男性 死別)①

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妻と死別して7回忌も終わり

妻と死別して7回忌も終わりましたので、次のステップに進みたいと思います。


一人になって話すことが少なく

一人になって話すことが少なく、ひとりでも多くの方と話したい。会に入ると外出する機会も増すと思います。


今になっても気持ちの整理がつかず

札幌東区在中、札幌生まれの札幌育ちです。

昨年、癌と告知され 50 日目に妻が永遠に旅立ち 67 歳にて生涯を閉じました。
今になっても気持ちの整理がつかず、受け入れることは出来ません。
44 年間の結婚生活を振り返ると悔いの残ることばかりで、夜はなかなか寝つかれずお酒の力を借りる始末です。
また夜中に目を覚ますと朝方まで眠れないことがしばしばあり妻の事を思い出しては涙しております。

そんななか、ネットでこのお独り様会を知り会員様の声を読んで、私だけが一人でないと気づき妻の分まで長生きしようとお独り様会に入会を申し込んだ次第であります。

そして今思うことは亡き妻との思い出は思い出として、未来の思い出を作るために「一生あなたの傍にいたい」と云ってくれるパートナーとめぐり逢い、お金のかからないお洒落をして最後には眠るように逝きたいと願っております。

会員の皆さまこんな私ですがどうかよろしくお願いいたします。


おへんろ紀行

おへんろ紀行(四国八十八ヶ所巡拝と高野山参拝) お寺をめぐる旅―11

弘法大師と四国遍路について

大師は宝亀 5年(774)讃岐国多度郡屏風ケ丘(現 75番善通寺)に生まれた。
大師の学問所は甲山寺(75 番札所)や弥谷寺(71 番札所)ともいわれている。
延暦 7 年(788)に叔父の阿刀太足に伴われて上京し、大師 18 才の時に大学の明教道(経書科)に入学することが許された。
大師は勉学に励み周囲から将来を期待されたが、ある時に出家し、名を無空と改め、やがて大学を去った。
その頃ある僧から「求聞持の法」を授けられ、山岳修行者に身を投じた。
そして阿波の太龍寺(21 番)や土佐の室戸岬(24 番最御埼寺)或いは石鎚山等で厳しい修行を重ね、20 才の時、和泉国真尾山寺で得度、出家し、名を如空、後に教海から「空海」と改め、苦修練行の後、都へ出て南都六宗の教学を学ばれた。
そして「実の如く自身を知ることによって人間のすがたそのままで仏になれる」と説く大日経の写本を発見した。
やがて 31 才(804)に入唐し、2 年間の留学中に密教の第 1 人者といわれる青龍寺の恵果阿闍梨から胎蔵界、金剛界、伝法阿闍梨の各灌頂を伝授され、密教の奥義秘事を受け継いだ。
大師は2年間の在唐中に多くの知識を吸収し、あらゆる分野の書物を集め、大同元年(806)帰国し、翌年上京した。
真言宗開創の勅許を得たのは、大同 2 年で帰国の翌年に当たる。
大同 4 年洛西の高雄山寺に入られ、弘仁 7 年(816)大師は自身の宗教的な体験を一層深めるため、天皇の許可を得て高野山に堂宇を建立した。
弘仁 14 年(823)には東寺を賜り、密教の専門道場とした。
その後、教育の普及にも力をそそがれ、民衆の教育にも当たり、さらに満濃池の築造など社会事業でも活躍し、その他あらゆる分野にわたって豊富な知識と技術を生かして、日本文化の発展に貢献された。
承和 2 年(835)大師は高野山の金剛峯寺において入定した(生きたまま仏になるー即身成仏 62 才)延喜 21年(921 年)醍醐天皇は弘法大師号を贈られた。
四国八十八ヶ所は弘仁 6 年(815)弘法大師 42 才のときに開創されたと伝えられる。
大師の入定後、高弟真済がその遺跡を遍歴したのが始まりという。
平安時代は大師のゆかりの地を巡拝することが行なわれていたが、鎌倉時代になると真言宗の僧が苦修練行をかねて大師の遺跡を巡歴したことが知られている。
やがて室町期に入ると一般庶民も参加するようになり、八十八ヶ所の霊場が固定したのは室町末期から江戸初期にかけてが、通説となっている。
八十八という数字は八十八使の煩悩に由来するとか「米」の字を分解したことによるとか、或いは男四十二・女三十三・子供十三の厄年をあわせたという。
また「まんだら世界」ともいう。
江戸時代の初期に高野山の僧真念は四国霊場を十数回巡拝し寺の縁起や道程を詳細に調べ、僧雲石堂寂本に依頼して「四国遍礼霊場記」を署述させ、真念自身も軽便な案内書を署わし人々に巡拝をすすめるなどしてその普及に努めた。
この結果、四国遍路は盛んになり、一般化していった。
遍路には地元四国はもとより、中国方面からが大半を占め、時代が進むにしたがって関西、関東、東北と、全国的に広がっていった。
四国には接待という、独特な助けがあって、あらゆる層の巡拝も容易にした。
その道程は三百六十余里(1440km)、歩いて四十日から六十日ほどの日数がともなう長路の旅である。
また、車でめぐっても十日ほどの旅になる。


定年を機に母の居る札幌市に帰ってきました

札幌市出身ですが、社会人になって 20 年間は北海道(札幌市 2 年)後半の 20 年間は本州で勤務して、定年を機に母の居る札幌市に帰ってきました。
5 年前に母を看取り、3 年前には一人息子(神戸市)を亡くしました。
昨年は姉(カナダ永住)、兄、と妻を亡くしました。
札幌市には友も少なく、又それぞれに家庭もあるので付き合いにも限度があります。
今度は道新で「お独り様会」の記事を見ました。
会員交流会とオフ会等々で会話のできる友との交流を願っております。
(特に食事会を楽しみにしております)


二十数年前に出逢った一編の詩

三笠の福寿草を皮切りに、銭函オーンズのユリ祭り、滝川の菜の花まつり、岩見沢バラ祭りなど最高のシーズンでした。
新しい年を迎え私はこの会の最高齢年代の一人となりました。

二十数年前に出逢った一編の詩を再読して、心を新たにしたいと思っています。

青春とは人生のある期間ではなく
心の持ちかたを言う
・・・・
怯懦(きょうだ)を退ける勇気
安易を振り捨てる冒険心を意味する
・・・・
年を重ねただけでは人は老いない
理想を失うとき初めて老いる
・・・・
(サムエル・ウルマン「青春」より抜粋)


チョイ悪爺のつぶやきコーナー

<チョイ悪爺のつぶやきコーナー>

通いなれた線路わきの手稲駅へ続くイチョウ並木は、今はすっかり葉を散らしてしまいました。
冷たい風が容赦なく吹き抜けて思わず身震いがでます。
やっとタイヤ交換を終え、私は、入会三度目の冬を迎えようとしています。

いよいよ今月で 70 代も終わりだと思うと~投稿文を練りながら去来するものは、「玄米ランチの会」に明け暮れたこの 2 年間の事、私の晩年の忘れがたい(充実した)日々になるだろう。
この会に入って良かったとつくづく思う。

ただ、なぜかアンデルセン童話「マッチ売りの少女」を連想してしまうのには閉口だ。
先日ひょんなことから暫くぶりで新幹線に乗った。
早いだけがみその此の乗り物に旅心を託すなどと考えてはいけない。単なる移動手段に過ぎないから。
それで盛岡で途中下車して花巻線快速電車釜石行に乗った。
なぜかと云うと「浄土ヶ浜」「碁石海岸」それに「遠野」まだ見ぬ憧れと云うようなものだ。

三陸海岸には以前から興味があった。
民俗学で有名な柳田邦男の「遠野物語」彼がこのまちに逗留した旅館を少しの時間見てきた。
私の持ち時間はそれで終わり、三陸海岸の旅はお預けになってしまった。

私が長年望んでいた札幌市電のループ化が、去る 11 月 11 日ついに試運転の段階になり 12 月には開業するそうだ、
近々子供のように乗りたいと思っているが、それ以上に貸切でランチ会はいかがだろう?

赤レンガ前の北三条通り、創成川沿いの公園化もなり札幌もだいぶ良くなった。
なによりも近年豊平川にサケの遡上が見られるようになっただけではなく手稲区星観川や星置川にもみられるようになっていることだ。
河川に鮭が帰ってきたことはすばらしいこと、循環も良くして、お互いに元気で長生きしなければいけない。

さて、11 月から毎月 26 日を「いい風呂の日」として温泉巡りと洒落ようと考えたが、そんなに上手くいかないものですね。
無料お迎えバスがあれば絶対それを利用するべきだし、語呂合わせだけじゃダメなんだ。
一人でも二人でも希望者があれば行きたいと思っている温泉、新篠津温泉(ワカサギ釣り)、竹山温泉(北広島)、東苗穂温泉(千の湯)、定山渓温泉(ホテル山水閣)、手稲温泉(ほのか)、まだまだ沢山ある。
もっとも、のんびりゆったりできれば、私はどこの温泉でも良いのです。

ご飯仕度も後片づけもいらない日が月に 1 回くらいあってもいいかなと思っているんです。
マンガ文庫一冊かかえて軽い気持ちで出かけましょうよ!皆さん。


妻と死別したのは10余年前

妻と死別したのは 10 余年前・・古希になった独居生活者である。
傘寿まで元気の予定。(父母は米寿迄自活していた事が拠り所・・あやふやではある)
元気であろう 10 年間、何をしたいのか、何をするのか・・漠然としている。
現在の自活生活にそれ程の不自由は感じない。自炊もそれ程苦にならない。

ただ自ら対処出来ない事が突然自らの身に起きた時にどうするか?・・近くに娘はいるが、おそらく近々転勤の夫と共に離道するであろう。道内に身内がいなくなる。若干の不安が募る。
上記の課題や不安に何らかのアドバイスやヒントを頂けるのではないか・・と思い、当会にお世話になろうと思った次第。

酒も少しだが飲める・・主にお湯割りの焼酎。
都合がつけば月例の飲み会に参加させて頂きたいと思っている。
山歩きも小旅行も食事も気の合う仲間と一緒の方が楽しい。どうぞ宜しく。


常にベストを尽くせ!

「常にベストを尽くせ!」

これは、わたしの「座右の銘」としている大切な言葉です。
「座右の銘」とは常に自分の心に留めておいて、自分に対して、意欲的に命令したり、戒めたり、励ましとする「格言」のことです。
自分の人生の道しるべ、自分のめざす目標として自分の歩む道を照らして行く大事な灯なのです。
とても大きな目あてであって、絞りきれないと思われるかもしれませんが、類別して具体化するとわかりやすいかもしれません。

ベストを尽くすのは、まじめで成果を期待する分野に限ると辛くなります。
私は遊ぶ時には、遊ぶことにベストを尽くすべきであると思っておるのです。
カラオケで歌うときは唄うことに、卓球をするときにはボールを打ち込むことに、ウォーキングをするときには歩くことに、ベストを尽くすことが良いと思うのです。

大事なことは自分が行うことに集中して取り組む気持ちや行いではないでしょうか。
何事にも自分から前へ出ていくこと、進んで参加することです。
引っこんでいてはだめ、見ているだけでは進歩がありません

我々の年齢は何時までも若くはありません。体力や気力にも限りがあります。
私はお独り様会に参加することを通して、自分でできることにベストを尽くしてまいりたいと思っておるのです。


最愛の妻は

最愛の妻は今年の1月11日腹部大動脈瘤の破裂により手術もできず、異常が起きてから約5時間でなくなりました。

破裂した時は痛かっただろう。我慢したんだろう。
何もできなかった自分が悔しい。
意識のあるうちに、お礼とお別れを言いたかったが、それもかなわず、ただ家内の右手を握りしめ奇跡が起きるのを願っていましたが起きませんでした。

1月27日には石垣島への旅行の出発、2月7日は48年目の結婚記念日、2月14日は満70歳の家内の誕生日の目前でした。
無念だったと思う。せめてあと2カ月生かしてくれたならと思います。

夢遊病者の様な49日でした。

私は遺品を見るのがつらく、猛スピードで遺品整理をしました。

妻に、私の母の面倒を見てもらった恩返しをしたい。
そして妻の喜ぶ顔を見たい一心で働いてきました。
その目標がなくなり、魂が抜けたようであります。

1日中一言も話さない日もあり、寂しく、くじけそうになったり、正直なところ何時まで頑張れるか自信がない毎日であります。

「1 人になれば何とか出来るさ」と豪語していましたが、思い知らされました。

仕事人間で、炊飯・洗濯などの家事は何もできず、不器用と無力さを感じています。

最近ようやく遺された私が元気に過ごすことが、妻への何よりの供養と考えれるようになりました。

この様な時に「お独り様会」の新聞記事を見ました。
配偶者を失った人でないと解らない悲しみを分かち合う場があったらなあ、と思っていたものですから応募しました。

将来の目標はマンション管理士(*の副理事長)としての相談業務、創業者向けセミナーの講師、*(テーマーは営業活動の基本)の講師業に更に力を入れ、社会貢献ができ存在感のある人生、天寿を全うしようと考えています。


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