朝日新聞出版AERA(2024年12月16日発売)で紹介されました。

妻と離婚した60代男性の本音~出会い、寂しさ、子育て、友達、健康など

60代の離婚独身男性からいただいた本音です。
別の独身の方々の本音を読みたい方はコチラ

目次

離婚経験・結婚生活の思い出

2年ほど前に熟年離婚。もともと子供がいなかったこともあり。
寂しい時など、良きパートナーや楽しい仲間が居ればなと思います。

協議離婚をした。当時の私は多重債務で苦慮していた。そんな様子にあきれて妻は別居し、数ヵ月後に離婚届にサインをした。責任は百パーセント私にあるので、持っていた唯一の不動産(宅地)の権利証・実印などを妻に渡した。
私はゼロからの再出発をと考えて、翌年、裁判所に自己破産の手続きを自分一人で行なった。5ヵ月後にそれが認定され、肩の荷がおりた気分。ともかく金銭のことでは今後、絶対にひとに迷惑をかけないことを心に決めた。

単身赴任の中、定年受け入れ年齢(55歳)に達し、具体的設計のないまま、体調の不安、単身赴任の辛さの蓄積、愛犬の死去などの要因が後押しして退職願を提出、その後1年半かかりましたが受理されたのでした。この時期に至っては、僕と家族間の関係は崩壊寸前でしたが、つながる可能性も残してはいました。しかし、老後将来への想いのギャップと確執は続き、僕もお酒を飲む機会を減らすことができず、ひとまず別居、結局離婚となりました。

65才になる誕生日に、この自己紹介を書いております。
離婚当初は自炊等をしておりましたが、約40年以上一人で生活をしていますので最近1~2年はコンビニ専門です。一人で外食はきらいな人間です。

現在は、両親から引き継いだアパートの管理をしており、毎日料理にてこずりながらも何とか自炊しています。旅行と露天風呂が好きなので、各地を回りました。
クラスメートなどから押しつけられ、中学・高校・大学のクラス会の幹事をしており、結構忙しくしています。スポーツはあまり得意ではありませんが、時々ウォーキングやパークゴルフをする程度です。
私は、病院の事務職をしていました。結婚は職場の政略結婚のようなものだったため、57歳で退職してから離婚しました。現在、2人の娘と3人の孫がいます。

29才で結婚以来、会社勤めを60才でリタイヤし、63才で結婚生活をリタイヤしました。離婚したことは身内の2人と元同僚の1人に打ち明けたのみで、他の元同僚や先輩、後輩には公表していません。円満協議の熟年離婚であっても、この辺の話になると辛いものがあります。

昨年11月に妻と32年余りの夫婦生活にピリオドを打ち、この10月で64歳になりました。60歳定年退職後、オーダーがあって前の仕事に少し就業した後、こちらにやって来ました。
今は年金生活に入ったところです。前妻との間には、2人の子供(男女)がいて、それぞれ大学を出て社会で働いています。
離婚に至ったのは、妻との間でお互いの考え方の違いや、思いと行動で誤解を生んで、生活の中でコミュニケーションが疎遠になり、結果、円満協議熟年離婚という形になりました。大人になった子供達も私達の関係を理解し、結果に賛成してくれ、現在に至っています。
離婚後は、子供達とは親子ですからメールのやり取りで連絡を取り合っています。前妻とは、友人という関係を維持しつつ、子供のこともあるので、時たま近況等を連絡しあっています。
最初は住宅(中古住宅)のインフラ環境整備や生活の基盤整備でバタバタしながら時を過ごしました。その間、従来からの趣味の山登りを続けるべくシニアの山登り同好会に入って活動を始めています。

家族を引き連れての転勤生活、大きな転職、故郷へのUターン、失業保険生活、異業種への再就職、再度の転勤、またもUターン、単身赴任、これらの生活で何とかつないできましたが、中年以後の将来に対し設計らしきものを意識できず、浮草のような人生でした。的確な人生設計に基づいて家族を支えていくのが賢い家族のリーダーなのであれば、僕は失格だったのです。しかし、一抹の思いとしては、しばしば妻からくる突き上げのような将来像への具現要求には違和感を覚えたものでした。
再就職での生活が続き、子供たちの教育が終わりに近づいたころから、僕の中に自分なりの第2の人生に対する漠然とした希望が生まれてきました。それは、山村あるいは田園地域で、古い住宅があり愛犬がいて、来訪者を相手に少ない収入で自然に囲まれて暮らすという一般的な老後設計とはまるで相容れないものです。そこには妻と共生する図式はありませんでしたし、そんな心の一端を家族の中で話しても「何を考えているの」との反応だったのは一般的には至極妥当でした。
そうしているうちに、定年退職後の最終局面で、人的つながりから有機農家との縁を得てそこの作業に参加、付帯する里山の係わりという場面が発生、少しの収入にもなり、続けていました。その期間が5年を数え、ここを最後の人生を送る場所として移住を考え手探りしていたところ、願ってもない中古住宅が見つかり、昨年6月に小型犬と移住しました。
流転の年月でありました。現役のころから夢ではありましたが、一つの形として実現するとは半信半疑でした。

出会いたい

出あいを大切にしていきたいと思います。

良きパートナーにめぐり逢いたい。同性・異性を問わず気心の知れた友人を増やしたい。残りの人生を新たな仲間たちと共に、少しでも有意義に過ごしたい。

日本のポップスやフォークソングが好きですが、カラオケの店に一人では行きづらい。おいしいと評判のランチの店にも行きたいけど、一人では行きづらい。というわけで、どなたか一緒に行ってくださる女性がおりましたらと思っております。

離婚してから17年の歳月が流れ、その間不安定な生活が続き、女性と交際する経費さえ工面できず、長い事一人で生きてきました。今は安定しましたが、よき女性の友達と知り合いたい。

若いころに上京しました。卒業後に戻るつもりでしたが、そのまま就職、家庭を持ちました。でも10年前に離婚、その後は独り暮らしをしています。
今は肩の力を抜いて、ゆっくり、できればやり直してみたいなと思っています。

離婚して数十年が過ぎました。40年勤めた職場を7年前に無事定年退職し、第二の職場に今も現職で勤めていますが、毎日職場と家の往復ばかりで、家で待っているのは愛犬だけです。
それはあまりにも寂しく、休日には旅行や温泉等に一緒に行ったりできる、話の合う異性の友人を求めています。

一人になると時々「さみしいでしょう?」と問われることがあるが、私には孤独よりも、すべて自分一人で決められるので、そのことのほうがうれしいといった気持ちが強かった。
そうした日々のなかで出会いがあり、1年前には テレビの取材をうけ、高齢者の恋愛として放映された!しかし後日談があり、現在はまったくのフリーとなった。
先日、私も高齢者になり、およそあと15年の余生を大事に過ごしていきたいとつくづく考えている。

コロナが終息したら、入会しようと思っていました。
しかし、終息はおろか変異ウイルスが出てくる始末なので入会しました。

私は今年、再就職し、午後の仕事になりました。
仕事が終わり、20時ころ家に帰ってきても誰もおらず、それはそれでいい時もありますが、たまに誰かと話をしたくなります。

お酒は付き合い程度に飲みますが、以前から一人で飲み歩くことができない性分。
また、今までの仕事のせいか、年齢なのか、6時過ぎには目が覚め起床します。
午前中はだらだらと引きこもり状態です。

今は、今後結婚することは考えておりませんが、できることなら一緒に暮らす女性が見つかるといいなあと思っています。
なんだか都合のいい話ですが…。
いずれにしろ、いろいろな方とお話がしたいです。
仲間に入れてください!

あっ、それと、今年の大みそかに一緒に初もうでに行ってくれる女性を探したいです。

寂しい

69歳の男子です。30数年間の独身生活を今日まで送ってまいりました。
いつの日か良い女性とめぐり逢いたく、今日まで1人淋しく過ごして来ました。残り少ない人生にもう一度、幸福な生活を心から望んで居ます。
私の過去の妻は、私が冬期間仕事に行って留守をした時にヤクザと肉体関係を致し、それが原因で離婚しました。私は大型トラックの運転手や土木作業員をして来ましたが、今は腰を悪くして失業の身です。どうか結婚を前提として、心の優しい女性を求めて居ります。
私は短気ですが、良い所は竹を割った様な男です。そして面倒見が良く、子供が大好きな男です。

長い間一人暮しをしていると、だんだんさみしくなって来ました。同じ様な人達と、仲良く生きていけたら良いな、という思いです。

離別して早14年、すっかり独りには慣れました。自由は謳歌していますが、いつまでもこのままとは行かないな、とふと寂しく思う時があります。

離婚して15年が過ぎ、掃除洗濯も苦にならずに過ごしてきました。料理を作るのも好きで、土日になると趣味の釣りアウトドア他、自由気ままに過ごしてきました。しかし、映画に行くのも食事に行くのもショッピングに行くのも、何をするにも一人が淋しく感じるようになりました。趣味を生かしたお付き合いをしたいです。

ひとり住まいの寂しさと孤独感を感じ、心の通じ合える人と巡り会えればと思います。別れて一人暮らしになって8年になります。
誰とも話さない日もしばしばで、将来に不安を感じています。ボケ防止のためパソコンを勉強したり、体育館へ通ったりして、心身の現状維持に努めていますが、ひとりではなかなか難しいです。いろいろな趣味仲間と知り合い、毎日を楽しく過ごしたいと思っています。

健康

サラリーマン生活も終り、それからの数年はなんとなく過ごして、現在の生活は健康の不安以外は特別何もありません。やはり将来は健康と社会交流少ない事が自分なりに大変心配です。

人生には想定外のマイナスのことがおきうるわけなので、最悪、孤独死(孤立死)をさけるためにも、パートナーは必要だと思っています。結婚という従来の形式にとらわれなくても、ルームシェアはもとより、共同の生活のさまざまな部分でシェアし合うことが、必要ではないかと思う。

男子平均寿命79歳とて健康寿命は概ね平均73歳とか。そう考えると、日々ボ~としている自分に焦りを覚えます。この様な思いから何かのサークルなどへの入会も考えましたが、人付き合いが疎遠になると、見知らぬ会に自ら飛び込む勇気もなく、億劫なる気持ちが勝るのか、なかなか行動が伴いません。しかし、心身共に健康な生活を過ごす為にも、積極的に外へ飛び出し、人との触れ合いを持つべきですよね。

私は結婚して三十余年、仕事柄単身赴任で、別居生活はその約1/2を占めておりました。そのため、妻そして私も結婚生活の頃からそれぞれ、お独り様であったのかも知れません。二人で居ることに「わずらわしさ」を感じると妻は申しておりました。離婚原因は世間でよく言われる性格の不一致でありました。ただ、一つの共通項は国内外を旅行することでありました。
夫婦二人であった一人から、今まさに完全なるお一人様。現在の生活は地域のシルバーの方々とボランテイアやパークゴルフをして楽しんでいます。人間一人では生きられない(人間とは人と人との間柄なのですから)。互いに助け合い、励まし合って前向きに、楽しく愉快に何より健康第一で生活していきたいものです。

とくに老後になると、病気への免疫をしっかりつけるためにも日々の生活で笑うことは欠かせない。私のささやかな体験(後期高齢者との一年間のルームシェア生活)でも、じっさい毎日一度は彼女がお腹をかかえて笑いころげるよう小話を用意すべく、頭を振り絞った。落語家かお笑い芸人と暮らしているみたいだ~と喜んでくれたと思う。
何も笑わすネタがない?そういう場合は、朝、オハヨーと挨拶して「きょうもキレイだね!」と続けるのがいい。シャベリはタダなので、口から生まれたと言われるくらいでちょうど良い。これが本当のリップサ-ビス!

中古マンションを買い、再生活を始めました。一昨年まで山歩きを楽しんでいましたが、体に不調があり、現在は体育館に行き汗を流しています。昨年、ある方と結婚しましたが、上手くいきませんでした。

心がけ

…悲しみの中にあるとき…
悲しみに押し潰されそうな気持ちに、どう対処するか?
ひとつは…その想いのたけを語れるひとを見つけ傾聴してもらうこと
ふたつ目は…今までと異なる体験を、あえて試みること
みっつ目は…時間の経過を待つこと

「素顔」という曲があります。「お前の素顔がキレイだったからこそ あの時 手鏡 贈ったんだ。お前の過去を化粧で隠す為じゃなく 素直な心を映(うつ)せばいい」
あと、中島みゆきさんの歌で「救われない魂は傷ついた自分の事じゃなく、 救われない魂は傷つけ返そうとしている自分だ」歌はいいですね。
みんな悲しい事や幸せな時もあったのだから、今は残された人生、素直に生きたいですね。人間だからこそそれさえも上手く出来ないのかもしれない。別にカッコつけている訳じゃなく、本当、自分も色々あったから、そう今、思います。

生きる基本は「楽しく生きる」事と思っている。
多くの人は苦しみや悲しみを抱え大変な毎日を送っていると思うが、一度しかない人生、楽しく生きていくほうが勝ちである。

藤原正彦という数学者の「知れば知るほど」という本を読んでいて、なるほどなと感じた二つのことを紹介します(多少、意訳の部分もあります)。
その1。「孤独」が淋しいのではなく、人がいなくなった喪失感が淋しいのだ。静かな山歩きや、ただ海をじっと見るだけで淋しいとは感じない。そこに、かつて賑やかさや楽しさがあったと思うから淋しいのだ。日野てる子の「夏の想い出」という歌がある。「…冬の浜辺は淋しくて、寄せる波だけが騒いでいた…」と歌っている。夏の賑やかな、楽しい想い出があるからこそ、秋や冬の海が淋しいのだ。平穏でも幸せだったあの日々…を思うからこそ「孤独」も一(ひと)入(しお)、となるんですよね。
その2。「これまでが、これからを決める」生き方をするより、「これからが、これまでを決める」生き方をしたい。《afterward…その後、それ以後の世界》という単語がある。自分の人生の決定的な分岐点を、それを知らぬまま、ただボンヤリとあっという間に見送ってしまったのではないか。何も考えず、次の道に足を踏み入れてしまったのではないか。もうすでに一本道で、脇道も分かれ道もなく、後戻りもできず…。しかし、afterward…それ以後をあきらめて進むだけではいけない。「これまでが、これからを決める」という生き方をしてきたが、「これからが、これまでを決める」という生き方をしていきたい。

これからの日々において笑って過ごしたい~そう思っています。各地の花便りと共にドライブを楽しもうと思っています。しかし1人ではつまらないもんですよね、同世代で同性異性を問わずお付き合いして頂ければ嬉しいです。私は、周りからは若く見られることも多く(お世辞かも)、気さくでざっくばらんな性格だと思っています。

子供

6才の女の子がいて(4月に1年生になりました)、なかなか自由に出かけられませんが、早くいい人に出会えたらと願っています。一人というのは、自由である反面、年をとるといろんな事が気になってきて不安になります。私も、この子が大きくなるまでに病気で倒れたらどうしようとか、寝顔を見つめながら考えます。
一緒に親子3人で歩む人がほしいと心から思っています。親子3人で、明るく前向きに楽しく、旅行をしたり、温泉に行ったり、山菜採りやドライブしたり…といろいろ楽しんでいきたいと願っています。やっと寒い冬が終わって、暖かい春が来たのですから。40代~60才くらいまでの、健康で明るく前向きな人と出会いたい。
「一歩前へ!」行動しなければ何も変わりません。ダメ元で勇気を出してみませんか。

親バカ 『愛は勝つ』。娘の名前は愛(私が名付けた)。昔、娘が高校生のとき、男性歌手KAN(カン)が『愛は勝つ』で大ヒットしていて、娘は追っ掛けをしていた!その夜もある放送局で追っ掛けが終わって、私に迎えに来るよう電話があった。
車に乗るなり、娘は「ごめんね。あす早いんでしょう?」と言った。(当時わたしは5時起きの仕事をしていた)。私は思わず「お前には負けるよ。これがホントに、愛は勝つだ~」と一人ごちた。

子育てを終えて

再婚しましたが、ご多分に漏れず些細なすれ違いから昨年23年余りの結婚生活に終止符を打ちました。
長男は私と、長女は妻の元で生活し、この春長男は東京の希望大学に進学しました。長女とはメールで連絡を取り合っていますが、 歯がゆさは否めません。結果、お独り様を絵に描いたような味気ない生活をしています。
長男との生活で、目標達成のため我武者羅(がむしゃら)に初めての弁当作りから一身腐乱で走ってきましたが、今、長男が抜けた心の穴の大きさと正気を保つ難しさを改めて痛感しています。虚脱感から明日への希望を持つことも中々厳しく、 難しいものが有ります。

離婚して20年位になるが、子供達も成人して私の責任も終ったので、第2の人生を楽しみたいと思っています。

仕事

今年で還暦になりました。いろんな趣味をやっていますが、たとえば空手やアウトドアが好きで、テントは8はりほど持っています。登山も大好きです。
現在は一人で過ごしています。家は戸建てで一人には広すぎ、寂しいです。性格は頑固で、優しいけど怖いかもしれません。あまり細かいことはいいませんが、相性が大事だと思います。
離婚してから20年たちます。これからは、誰か相性のいい方がいればと思っています。子供はひとり、娘がいますが、別居で医者をしています。
私は体は丈夫だったのですが、還暦になってからは、多少は馬力がなくなりました。私の好きな言葉は、「わが敵はわれにあり」です。
仕事は自営で会社を経営しています。仕事の内容は設備系の省エネ器具の製造、販売施工です。いろいろ特許も取得しており、一応メーカーです。私一人でやっています。これからも、どんどん仕事をしてゆきます。

私の家は、三つありました。
アルコール中毒の父1人の家と、母と兄姉妹の生活している家。
私は祖父母の家にいました。小学2年の夏から、炊事、家事と動物の世話(ニワトリ、ウサギ、ネコ、イヌ)をする生活が始まりました。勉強する時間は2時間位しか有りませんでした。
中学1年の時、祖母が無くなり、祖父と2人の生活が中学卒業まで続きました。何とかしなくてはと思い、メーカーに入社し、夜学の工業高校で学ぶことに成りました。卒業し、ストレートで工学院大学第二部も合格しました。おかげで30年、電子、電気の仕事に携ることができました。

25歳から自営(会社経営)ですから、悪かった時と良かった時の差はそれなりに。逆に、この10年はシンプルにする努力をしています。前に進む勇気と後退する勇気、両方あると思います。結婚して離婚…子供は3人成人して独立しております。生涯、現役でいたいと思っています。
今もアクティブに、仕事に運動にetc…活動しています。65歳を過ぎたら、仕事等の合間を見て「社会貢献」として自分にできる範囲のボランティアをすることを20年前から考えておりました。

亡父が国鉄職員だったため、私は小学生の時から父の転勤に伴い、各地を転校しました。就職はマスコミ志望でしたが難関で苦戦。大学卒業後は一時、番組制作のアルバイトに従事。新聞社に入社することが出来ました。
新聞で千葉支局などを経て東京本社で整理記者や外勤(取材)記者を経験。本社メディア情報部時代は放送局の取材も経験しました。定年近くになり出向し、季刊誌の編集に従事し、60 歳で定年を迎えました。
無職になった現在は、月刊誌「本の雑誌」や「文藝春秋」「週刊文春」「週刊新潮」「週刊フライデー」などを愛読。趣味のモダンジャズを鑑賞するため、ジャズ喫茶に通うことが楽しみです。

”今までは何をやっていたの?”ということですが、主に、電子機器メーカ(Y社約34年、H社4年余り)のエンジニアとしてAV機器、通信機器、音楽録音機器、CDR等々電子機器の設計・開発・立ち上げ業務に携わってきました。業務の中で、多くの国内・海外出張経験や貴重な体験をさせてもらい、充実感のある年月を送らせてもらいました。
どちらかというとこの時は仕事人間だったかなと、これがゆくゆくの離婚原因の一つと考え反省はしています。
これからの生活ですが、
◇まだ結婚していない子供達の見守りとサポート、そしてここの生活に、より身近な関係の話し合える友人をつくりたい。
◇肉体的、精神的、健康維持の為にも、山登り・ハイキング等今後も続けたい
◇過去の蓄積した設計技術経験を生かして、損得を度外視した世の中に役に立つものを工夫して考え、個人的に設計をやってみたい
又、ボランティア活動も参加できれば良いなー!等々を考え、実践しつつ、残りの人生を全うしたいと考えています。

思うこと

先人いわく、人生に必要なもの三つ~「勇気希望といくらかのお金(サムマネー)」。

以前ケアマネとして勤務していた会社のヘルパーさんから「ゆくゆくは自分もホームに入所し、介護される側になりたい。現在の給料では毎年、古い現自宅の維持が重く、困難になり売るつもり。不動産会社に話して来たが、イマイチしっくりしないので良い方法はないか」との相談を受け、その子供さんや市役所、関係箇所等と色々な話し合いをしてみました。そして、縁とは誠に不思議なものです。廻りまわって私が買う事になりました。私も今更、家2軒はこの年になりいらないので、その家は他人に貸すことにしましたが、少子高齢化時代の昨今、いまは空き家です。住む場所を探している良い人が居るなら話して見て下さい。相談に乗りたいと思います。

私は父親の仕事の関係で、高校の3年間、叔父の家に下宿しておりました。先日、思いがけず、その頃受験勉強の「友」として聴いていたラジオ番組の事を思い出しました。それは、今は亡き森繁久弥さんが朗読する詩の番組で、タイトルは「しくしくからから」と言いました。田舎から東京に出てきた(「金の卵」なんて言葉もありましたね)若者達を主な対象にした番組でした。そして、「しくしくからから」という雑誌に詩を投稿すると掲載誌が毎月送られてくる、というようなものでした。50 年近くも昔の事が急に甦りました。もちろん、「しくしく」は涙、「からから」は笑いを意味するものでした。

昨年夏に民間賃貸住居をインターネットで検索し、現在のA区に落着きました。冬期間における結露が予想以上に酷く、撤退を考え、安くて環境の良い市営住宅への入居を思いたちました。しかし、ある時期の入居申込み(事故物件)で入居募集24軒中18軒もが孤独死物件であると知り、電撃的ショックを受けました。このことで、私も孤独死を迎えるかも知れない予備軍の一人であることを思い知らされました。

楽しむ

60歳になったのを機に、昨年4月に離婚しました。「計画的離婚」とでも言いましょうか…(笑)。今では独身生活を満喫しています。

五木寛之氏の著書「林住期」に、「林住期とは、社会人としての務めを終えた後、すべての人が迎えるもっとも輝かしい第三の人生である」と。そしてそれは人生の真の黄金期・クライマックスであると。私は今、それを迎えようとしている。
東日本大震災は人々の意識を大きく変えた。夫婦・家族・地域・仲間等の人と人のつながり、一人より二人、二人より三人。出逢いの中に小さな幸せを見つけ、一度しかない自分の人生と向き合い、充実した毎日を送りたい。近くの神社に行き「去年と違う笑顔が見られますように!」とお願いしてきた。
私は、出かけるのが好きで毎年のように、中国の雲南省へ、また沖縄に。雲南省には生まれ育った田舎があり、沖縄には美しい海と温かく迎えてくれる島の人がいて心を癒してくれる。

趣味はマジック(手品)です。通信販売で、プロマジッシャン監修という素人むけ手品セットを入手したものの、しばらく手をつけずにいた。
あるとき、図書室の帰り、向かいの部屋の看板に「マジック…」とあるのが目にとまり、まず見学をさせてもらった。月会費千円で、先生の指導もあるとの事で、二回目から入会して皆さんと一緒に練習を重ねた。
秋の区民センター祭や市のイベント発表会では、それぞれ数人と壇上へ。思い切りドレスアップして(スタンドカラーのワイシャツに韓国で買った蝶ネクタイ!)、きわめて数少ないレパートリーの中でお気に入り『ストレッチ・リンク』を披露した。それが私のマジックデビューだった。
先日、居酒屋で仲間に気がむくままテーブルでカードマジックを演じたら、二人の女性にはうけたと思う。ネタがばれなくてホッとした。よく考えられた手品は、例えると良質の推理小説のトリックのように感心する。いつか私の下手なマジックを目にする機会があったら、素直にビックリして下さいね。間違ってもネタをさぐらないように~。

離婚してから10年になります。結婚している娘が1人います。仕事も1年位前に辞めて、1人でツアー旅行を楽しんでいます。

今は元気で旅行などをしていますが、一人の食事が時々寂しくなり、良い人と巡り会えたら一緒に暮らしたいと思っています。今後の希望は、桜前線とともに北上し、紅葉前線とともに南下する旅行と、大学生の時にオートバイで行った1ケ月の日本一周を車での2回目、それに南回りの世界一周をしたいと考えています。
また、若いときに行ったグアムで見た熱帯魚の美しさを忘れられず、スキューバーダイビングに挑戦したいです。

友達

離婚してから6年。やっぱり人間って煩わしいことも含んで、人との関わりの中で生き続けるんですね。体を動かしていると夜もよく眠れるし、語らいから学ぶことは多々あります。

近年、麻雀が見直されています。これまでは、徹夜麻雀、賭け麻雀などマイナスイメージがありました。しかし、脳科学者も認めているように、麻雀には脳を活性化し脳の老化を防ぐ効果があります。頭を使って役づくりをする、リーチをかけてハラハラする、相手に振り込まないかドキドキする、「突き出た脳」と言われる指を沢山使う、などがその要因と言われています。
従って、老人福祉センターや病院の通所リハビリ、介護施設のデイサービスなどのほとんどで麻雀が取り入れられています。麻雀荘でも、(酒を)飲まない、(タバコを)吸わない、(お金を)賭けない、の「3ない」をウリに店舗が増えており、覚えたいという女性や熟年者が多数通っています。私も脳の老化防止を口実に麻雀を楽しんでいます。

私が集めた「言の葉」よりいくつか。
『機不可失 時不再来』 機、失うべからず時、再び来たらず(李靖伝)
(チャンスと思ったら行動すること。またあるだろうと思っても、同じチャンスは二度と来ない)。つい最近出会った言葉です。
『浜までは 海女も蓑着る 時雨かな』(瓢水)(どうせすぐに海に入るのに、わざわざ浜小屋から海までの短い距離で蓑など着なくてもいいのに)と思うでしょうか。「どうせ…」「どうでもよい」などと、投げやりの生き方でいいのだろうか。浜(死ぬ)までは、たとえ残りわずかでも、前に進みたい。恥ずかしくないように、いくらかましな人間に、そして、明るく生きて幸福な人生を終えたい…。そうは思いませんか。
最後に『一歩 前へ!』(留まったままでは、幸運は来ない。前へ歩き出す勇気を持って)
いかがでしたか? えっ、気付きましたか? そうです。皆様を誘導しているのです。

62歳の男性です。20代後半に結婚歴がありますが、数年で離婚致しました。また、40代の頃にもさような縁がありましたが、成就しませんでした。
今思えば、真から結婚や家庭生活を望んでいなかったのだと思います。子供はおりません。
この歳ですので、結婚うんぬんよりも、何か新しい人付き合いを望んでおります。

一人は不便

一昨年離婚するまでは「男子厨房に入らず」の昔ながらの言い伝えを頑なに守り続け、炊飯器のスイッチひとつ押した試しもなく、また、卵焼きすら作ったこともありませんでした(ゆで卵は馬鹿な私でも一度だけ経験あり、でも殻をむくと白身も剥けた)。

10月中旬に5日間だったが検査入院した。血液検査で数値が良くなかった為だ。誰しも、「自分が、まさか…」と思うものらしく自分も例外ではなかった。
「お独り様」のメル友には話しをしたが、友人、知人には話しはしなかったので、当たり前だが、誰も病院には来ない。4人部屋で、他の患者さんには奥さん、子供さんなどが見舞いに訪れていた。入院生活は初めてではないが、やはりお独り様を多少感じたものだった。
だんだん歳をとるにつれ、こういう気持ちは強くなってゆくのだろうか。が、これは人間の避けられない問題。勉強になった。結果は問題なかった。

昨今、新聞、テレビなどで、独り暮らし、高齢者などの様々な諸問題を目にする事が多く、寂しい思いをしています。私、会社勤めを終え、日々自由の身になり、当初はドライブ旅行、日帰り温泉などカメラ片手に走り回って自由を満喫していました。
しかし所詮は1人旅~周りは夫婦家族、カップルなど~1人旅の寂しさを感じていました。何の取り柄も趣味もなく、人との触れ合いもなく、日本語を忘れてしまいそうな日々も少なくありません。
この様な月日の中で、人との触れ合い、接触が億劫になりつつある自分に一抹の不安を感じることもあります。

前向きに生きたい

私の日記です。
◎7月に五年余つとめたヘルパーを退職し、しばし鋭気を養った。
◎11月に「語彙・読解力検定」2級に合格した。
◎12 月には今もっとも期待されている(?)資格「遺品整理士」に認定された。特に、これからニ-ズが高まると思われるので早めに準備した次第。ホ-ムページ・facebook等で宣伝していく。
◎さらにもうひとつ、有償ボランティアを始めた。ボランティア参加者も利用者もウィン・ウィンの関係で、出来るだけ公的助成金をあてにせずに収支トントンになるように知恵を振り絞っているところ。
◎正月に買った十年日記が、すでに一年目のページがうまり、同じ月日のニ行目の記述が始まって、毎日が経過していく。この日記の最終ページを書き終える頃までは、せいぜい健康に留意してボケることなく、前向きに生きていきたい。

長年関って来た福祉関連の仕事を辞めて、半年間程、図書館通いの日々が続いていた。「無縁社会」。NHKがこの現代社会の一側面を取り上げて放送していた。自らもそれに類する本を数冊読んだりもした。しかし、自分がその対象者や予備軍になる可能性への実感はなかった。というよりも、そう思いたくなかったのかもしれない。
仕事では「共に生きる」と唱えながら、自分の生活やライフサイクルの中で、いつの間にか「縁」とか「絆」を束縛と感じ、自らそれを切り取ってしまっていた。…今更ながら様々な後悔が頭の中をよぎる。
「もっと素直になろう! 孤独感や人恋しさを抱くことは恥ずかしい事ではない」「未だ自分の中に残っている人とつながろうとする力」を今度こそ大切にしていこう。

私は小学生の頃から地図を見るのが好きで、その国や地域を想像して楽しんでいました。幼少の頃には、たまに布団に地図を描いて夢の中で世界旅行も(?)。
しかし、稲作農家の我が家では小学1年から農作業の手伝いをさせられ、高校を卒業するまで修学旅行以外の外出はできず、同級生があちこち出かけているのをうらやましく思い、「自分は世間知らずだ」と感じていました。
実家を離れて大学へ行き、夏休みにオートバイで友人と二人で日本一周を。1ケ月後のフェリーの時間だけで、連日予定なしで行動。畳の上で31泊寝て、合計宿泊代金は2100円。当時の国立大学の男子寮は、学生証だけで談話室などに50~100円で泊まることができたのです。社会人になってからも旅行に出かけ、自宅の部屋の壁には、北海道・日本・世界の3枚の白地図が貼ってあり、通った道や訪れた国がカラーペンで塗られています。これからも各地に出かけ、白地図を塗りつぶしたいと思います。

60才になり、だんだん人生を前向きになれなくなり、少しでも人に触れたら自分が変わるかなと思います。

お独り様川柳です。
▼いまを生きる
あと余命 十五年だが いま大事
▼支援しあうということ
人はみな 独りだけでは 生きられない
出来るうち 手伝いあって お互いさま
老いる前 余力あるいま 手を貸そう
そのうちに 自分自身も 助けられ
出来ないと 思えば何も 出来ません
カネはない が、支援する気は まだ充分
ヒトはみな どこか持ってる 弱さと強さ
▼交流
人と会う 一期一会(いちごいちえ)だ 真剣に
飲み会で 初めて知った 別の顔
バカばなし 陰口(かげぐち)いうより 罪がない

お独り様会会員様の寄稿から抜粋しています。

お独り様会

独身の「友達」を作ることから始めませんか

独身者限定で、同性・異性の友人作りを目的とした会です。

未婚・離婚・死別の方々が「友達をつくりたい」「結婚相手を見つけたい」「同じ独身の方と気持ちを共有したい」などの目的で入会し、会報、LINE、オフ会、オンラインコミュニティサロンなどを通して日々交流しています。

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20~34歳の女性は無料

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