死別の体験

死別された方が書いてくださった体験談です。

死別時

30代男性
力ない声で子どもの名を呼び、そして私に「泣くな」とつぶやき、最愛の妻はこの世を去りました。病室には心拍数を計測する警告音が鳴り響いていましたが、とても静かでした。

今年の事です。
閉め切った窓から穏やかに晴れわたる外の風が、一瞬だけ入ってきたような気がします。

多くの人に支えられながら、妻が愛してやまなかった子どもがもうすぐ一歳になります。
私は未だ前に進めずに躊躇しています。前に進むことの出来るきっかけが見つかればいいな、と思います。

40代男性
『僕に手があって良かった』『僕に目があって良かった』。
強力な痛み止めと睡眠薬で朦朧(もうろう)とする妻の姿を脳裏に焼付け、体を触り、手を強く握りながら思っていたことです。

そして臨終。案外、私の心は穏やかで、苦しみから解放された妻の顔に向け『ありがとう』と言い続けた事をよく覚えています。よく晴れた風の強い日でした。

人生が自分の選択した道の積み重ねだとするなら、私が15年前に亡き妻と出会い、生活を始めたことも自分で選んだ道の一つ。こんなに辛く苦しい将来が待っているとは予測もつきませんでしたが、初めから自分で選んだ事だったのかもしれません。自分の人生の責任みたいなものを感じています。

半年前の出来事をいつまでも決して忘れてはいけない事のような気がしています。
『僕に記憶があって良かった』。

50代女性
「愛してくれてありがとう。私に対しての献身を誇りに思っている。こんなに幸せな夫はいない。世界一幸せだった。そして、これから守ってあげられなくてごめんね。来世は18歳で迎えに行くけどいいかな?」
と来世のプロポーズをして、お別れの言葉を残してくれました。

私の腕の中で逝ったのに、その現実を受け入れられない私。もう一生会えないなど信じられない私。自分の体も心も人生ももぎとられたようで、この世の全てが静止してしまい、全てが終わり、全ての色が消えてしまいました。

60代女性
あれから16年の歳月が経過したのに、未だに医師のあの時の言葉が耳に残っている。「えっ、まだこんなに手の温もりが伝わってきているのに。ウソでしょ!!」と思った。

最愛の夫に悪性腫瘍が見つかり、医師より半年の命と言われた。闘病の時、夫の両親は義父が96才、義母が92才であったから、何としてもこの両親より先に夫に逝かれることは避けたいと思い、「病院食は不味くて食べられない」と言えば自宅で作り、日に3度温かいうちに病室に届けたり、保険適用外の漢方薬が病に効果があると聞けば服用してもらったりと、自分では精一杯の努力をしたつもりでいた。夫の死をすぐに受け入れられなかった。

頼りにしていた長男に先立たれた夫の両親も、心は悲しみの極み(きわみ)で、その捌け口(はけぐち)は当然嫁に向けられる。特に母は口八丁、手八丁であったから、常に自分の存在が中心でなければ気が済まない。私の言葉尻をとらえた言葉の攻撃が容赦なく降りかかった。私は自分の自宅でありながら居たたまれず家を出た事もあったが、いつも周りの友人や娘達が励まし支えてくれた。今にして思えば、それほど苦しく辛い日々は、未熟な私の人間形成に大きな役割を果たしてくれた、と深く感謝している。

今はその両親も夫の許へ旅立ち、それぞれの年忌法要も済ませているので、至らぬ嫁のことは大目に見てくれていると思っている。

60代男性
私は子供もおらず人生設計ができたので、夫婦二人でのんびり暮らそうと早期退職しました。しかし半年後、震度7というべき烈震、死刑にも等しい「私」の肺ガン末期状態の宣告を受けたのです。

ガンを受け入れるに際し、私は何も悪い事はしていない、私よりも悪い事をしている人は沢山いるのに何で私が、と自問自答しました。そのストレスからか、頭がクラクラしてその場に崩れ落ち、しまいにはトイレに行くのにも壁を伝って(つたって)行くようになったのです。手術し約2週間で退院しましたが、半月後、極度の寒さから脳が壊れそうな42度の高熱で約3週間入院しました。

そんな折、今度は妻が、私の発症から3年半後、突然かかりつけの病院からがんセンターを紹介されました。妻は歩くこともできず車椅子で初診を受け、その場で肺ガン余命1ヶ月、長くても6ヶ月と、本当に死の宣告をされたのです。妻はその場で入院、その後ホスピスに10ケ月入院し、旅立ちました。

私は自分のガンや妻との別れから、極度のストレスを受け、うつ病、不安症などで自殺を考えたり、まさに地獄絵図を体験しました。そのような中、何とかしなければ自分が駄目になると思い、スポーツをしたりパソコンクラブに入ったり、人とつながりを持つようにして、現在何とか乗り越えて8年になります。

60代男性
4年前、当日朝まで元気だった妻が、仕事から戻ったら旅立っておりました。

70代女性
元気印の夫が亡くなって、今年の秋で十年になる。あれから、もう十年とも、まだ十年とも思う。連れ添って四十五年、夫は一度も床に伏したことがなかった。

平凡なサラリーマン人生を誠実に歩み通した人だった。仕事が大好きで、定年後第二、第三の仕事先を見つけて来て、亡くなる三ヶ月前まで仕事をしていた。

小柄な身体で働いて働いて家族を守ってくれた。仕事の虫ではあったが家族想いの人で、出張先からよく電話をくれた。子供達は元気か。お前飯喰ってるか。忙しいからってちゃんと喰わなきゃ、などなど。

長男が赤ちゃんで泣きぐせのついた頃、夜、泣き止まない長男をおんぶして、夫は外へ連れ出してくれた。「お前、今のうちに寝とけ」と言って、長男を揺すりながら家のまわりを歩いていた姿を想い出すと、ありがたくて今でも胸の中があたたかくなる。夫は、一家の大黒柱であり、私の心の支えでもあり、恋人のような存在だった。

その夫が病気になった。胃がん。気がついたときは手遅れだった。長くて一年の命とか。

私の心の中で何かが壊れてくずれた。頭の中がモヤモヤして集中できない。考えると、やらなきゃならないことが押し寄せてくるのに、身体が宙に浮いていて動けなかった。

2ヶ月入院、7ヶ月自宅で私が看取った。自宅療養中のことは、言葉では言い表わせない。一日一日と痩せ細って行き、今、まさに死に逝かんとする愛しいこの人に、何をしてあげることも出来ない人間の無力さを痛感した。

紅葉があたりの山々を美しく彩る晩秋の朝、夫は旅立って逝った。享年七十五才。

泣かないで生きてゆけ、子供達を頼んだぞ、じゃあな、じゃあな。落ち葉の降りしきる秋になると、ひらひら舞い散る落ち葉の向こうから、亡き夫の声がきこえてくるような気がする。

70代男性
昨年、最愛の妻を腹部大動脈瘤の破裂により、手術もできずに5時間で亡くしました。痛かっただろう。意識のあるうちに、お礼とお別れを言いたかった。2週間後の石垣島への旅行予定、結婚記念日、70歳の誕生日の直前で無念だったと思う。

49日までの私は夢遊病者の様でした。妻の喜ぶ顔を見たい一心で働いてきましたが、その目標がなくなり、魂が抜け、寂しく、挫けそうな毎日が続きました。

ようやく、私が元気に過ごすことが妻への供養と考え、健康づくりを心掛けるようになりました。1人暮らしが始まり、ボケてはいられないと同時に、このような辛い思いをさせないように、私の体験、特に健康診断の大切さを高齢者に伝えたいと思っています。

70代男性
壮絶ながん末期治療から助かることなく、…死にたくない!の言葉を残して逝った残像が消えないなか、2年が過ぎつつあります…。孤独に対する無力感と淋しさから、閉じこもり生活…。これでは自らが破滅すると感じて、話し相手を求めています。

闘病

50代女性
夫がガンを発病。手術、抗ガン剤治療、入退院のくり返し。そして2年前、夫の希望通り、自宅で最期をむかえることができました。

希望をかなえてあげられて良かった。後悔はあまりないはず…。でも淋しい、空しい。

自分が生きていることに目的も意義も見いだせず、職場と自宅を往復するだけ。
眠剤に頼らなければ眠れない、空っぽの自分。

50代女性
夫に肺がんが見つかり、手術。その時に多形癌という症例の少ない癌があり再入院しました。抗癌剤も効かず、短期間のうちに組織全体に広がっていく癌だと告知を受けました。

少しでも負担の少ない医療をと考えホスピスケアの病院に移る手はずも整え、夫と闘病生活を送りました。医師の告知よりずっと短い、たった2か月の闘病生活で夫は帰らぬ人になってしまいました。

夫は看護士さんに「僕はまあまあ幸せな人生を送ってきたと思う。子どもも自立したし思い残すことはないんだけど、心配なのは泣き虫な家内だけだなぁ」と言っていたそうです。そういうことはきちんと私に伝えてほしかったと思います。

50代女性
年老いたらいずれは独りになる。夫婦も同じこと。しかしこんなに早く自分に降りかかるとは想像もしていませんでした。

私の夫は闘病三ヶ月半で旅立ちました。自分の無力さを改めて知り、ただ現実を受け止めるしかありませんでした。あっという間に二年が過ぎ、過去を振り返っても進展の無い自分がよく分かりました。

50代女性
ガンと告知を受け、手術をして5ヶ月の自宅闘病生活。残ったのは寂しさと悲しみと苦しみだけでした。こんなつらいことだとは、思ってもいなかった。

病気になってからの主人との事が毎日のように頭の中をかけめぐり、もっと笑顔でいてあげたかったとか、こうしてあげれば良かったとか、とめどなく涙が流れ、天国の主人に「ずるいよ、先に行って」と泣きながら訴えたことも。

毎日は長かったけど、1年はあっという間でした。今もまだ時々、主人のいない現実を受け入れられなくなり、どうすることもできない寂しさに泣いている私がいます。

50代女性
夫が亡くなって私の唯一の願いは、たった一度でいいから会わせて、一度でいいから会いたい。神にも仏にもお願いしましたが、叶えられませんでした。二人で戦った闘病期間。病の壁は高く厚く、のり越えることも突き破ることもできませんでした。

病気のために世界がすべて変わり、世間一般の楽しみも極端に制限され、少々あった貯えも消え、入退院を繰り返し、死への恐怖と隣り合わせでした。苦しむだけ苦しみ、あんなに頑張ったのに、彼はあっけなく、あっという間に逝ってしまいました。

50代女性
夫を病気で亡くしました。喪失感、さみしさ、むなしさ、すべてが私をおそいました。

優しく、いつも私を大切にしてくれた夫。今でも、会いたくて、会いたくて…。この気持ちをどの様にして次に進めていったらよいのかが私の現在の課題です。何をもっても、うめつくせない心の空洞。

早く夫のところへ行きたいとも思っています。しかし、私も生きていかなくてはならないのです。

60代女性
主人を亡くしてから四ヶ月が過ぎました。結婚記念日、誕生日、お祭り、各イベントは必ず二人で出かけていました。昨年のクリスマス、今年のお正月はとても辛く、夜は毎日が淋しく、もとの生活リズムがなかなか戻ってきません。

主人の告知は二人で受け、半年から十ヶ月。しかし子供達には「一年半」とメール。私にも「つらい思いをさせてゴメン」のメール。三回の入退院を繰り返し、四ヶ月半でした。

最近思う事があります。まだ桜の季節ではありませんが、私達には大勢の焼肉仲間がいます。桜の頃にはわが家で大宴会です。昼頃から始め、昨年から用意してあるとうもろこし、焼きとり、肉、魚等々。アルコールはもちろんです。笑う人、泣く人、おこる人、たまには談合もあるかもしれませんが…。二次会は家に入り、ゲームに入る人、まだまだ話したりない人、人。夜食は麺が美味しく、赤飯、五目めし、いくらと鮭ごはんのお土産付です。全員が帰った後、二人で後片づけしながら、「今回も無事終わり、疲れたけど楽しかった」の反省会。

今年も桜は咲きます。二人の共同作業がなければ仲間を迎える事が出来ません。今、冷凍庫にとうもろこしが入っています。

60代女性
生まれた時は父母、祖父母が居て、弟妹が出来て成長し、結婚。結婚した時も義父母が居て義弟妹が居て、子供が出来て離婚。その時は子供と二人でしたが、子供を養う事で頭がいっぱいで、二人でも少しも淋しくありませんでした。

10年後、縁あって子連れ再婚で三人になりました。三人の幸せな生活が6年続き、子供が就職で家を出ていって、二人きりになりました。二人きりの生活は10年に及び、幸せでした。

ある日突然、夫の入院。二ヶ月の入院で退院が目前の夜中、2度目の発作で病院から6~7分の我家から駆けつける間もありませんでした。この日から私は、ほんとうにひとりぼっちになってしまいました。気が動転している内に、各々の儀式は終わっていました。その間、自分が何をしていたのか、あまり記憶にありません。

5年程、車いすでしか戸外へ出られない夫に、私の出来うる限りの事を、と週五日のパート(7~13時)をしながら行動を共にしましたので、夫の亡くなった後、あれをしてあげたかった、これをしてあげたかった、という事が1つもありませんでした。自分自身でも、よく務まったと思っています。

そんな、べったりした二人の生活でしたので、自分の隣に誰も居ない事がすごく淋しく、虚しく、不安感が大きく、このやるせない気持ちの持って行き場がない。泣いても、わめいても、もう誰も私のそばに居てくれる人はいないのが受け入れがたいです。頭でわかっていても心や躰が思うようにならない日が三年程続き、家にとじこもりの毎日でした。

60代男性
ライフワークで書いております詩です。ご笑覧下さい。

「パトラッシュの追憶」

大好きなウィンドウショッピング
マネキンを眺めて釘付けの貴女
病魔に侵された体の手術を施され
退院後は不安定な歩行となった

この荷物を持って待っていてねと
人ごみの中で待たされ続けた
パトラッシュのようだねと笑い
わずかな回復への期待感があった

夢を打ち砕く挫折が待っていた
筆舌に尽くせぬ16年に及ぶ闘病生活
治療の道が徐々に閉ざされて行く
なすすべもなく絶望の渕で喘いでいた

寒い霜の降りた静寂の白い夜明け
すべてが終わったなかで黄泉路へと旅立った
齢を重ねない遺影の貴女が
下手ねと揶揄した顔で見下ろし

未だに独りなの 数年も経つのに
夜の巷では大活躍して
私をヤキモキさせた貴方がと
笑っているのでしょう

当時 夜のマーキング行為は
ご法度だからと脅されていた
今なお鬼嫁の呪縛に捕われている
パトラッシュです

60代男性
地方都市で平凡な家庭生活を送っていた。

家の新築もようやく叶い、二人の子供も長男は希望の大学に進学し、長女も高校の部活動のバレーボールに熱中し、妻の悩みは帰りの遅い、飲んだくれ亭主の問題だけでした。

朝は新聞を挟んで会話をし、「前の家のご主人はきちんとした時刻に出勤し帰宅し、羨ましい。私はまるで母子家庭か愛人の生活だ」と口角泡を飛ばし、カールを巻いた髪のままで食卓をバンと叩く睨みは、新国劇・国定忠治の主演者島田正吾も顔負けのキメ技です。

妻の毎朝の苛め(いじめ)や恫喝(どうかつ)にも、家庭円満の為だと一人ぐっと耐えながら、玄関まで愚痴で見送られて二日酔いの頭には堪らない。些少のボタンの掛け違いは有ってもお互いに解り合い、仕事も家庭も推移してきたが、40歳の時から妻の身体に異変がおき始めた。

何の予感もしなかった私達、突然の恐ろしい進行性子宮頚部癌と医師から告げられ、驚きの生存率、助けてくれと神仏にも祈願した。

退院後、一時は快方にと思われたが、やがて寝たり起きたりとなり、気力体力が衰え、最後の治療の道も閉ざされました。

長男が結婚して念願の初孫誕生と、長女の結婚を見届けると、親としての肩の荷が降りましたと、松の内の賑わいも落ち着きを見せた七草粥の日に、享年57歳で泉下へ旅立ちました。

夫婦で暮らした34年間の日々が一枚一枚と鱗のように剥がれ、想い出が希薄になることを危惧し、夫婦の軌跡を辿り、想い出を綴っております。

急逝

40代女性
イタリアンのシェフだった主人と一緒にお店をという夢もありましたが、主人は3年前、職場で倒れ、その日そのままかえらぬ人に。48歳という若さで突然死とは信じられない事でした。

私は両親の勧めで実家に戻ることに。しかし、私にとっては住んだことのない街なので慣れません。たまたま、高校の同級生などがいたものの、皆、子育てや仕事に忙しくなかなか会えません。私も仕事の為もあり、今は両親と少し離れたところで一人暮らしを始めました。

たまに仕事で東京へ行ったり、仕事を通して色々な方に会い、それはそれで楽しいけれど、どうしても夫を亡くした喪失感や寂しさからは抜け出せないでいます。どうしたらいいんだろうと…。色々な方と交流したり、気持ちを分かち合えたらいいなと思っています。

60代女性
病気が解ってから亡くなるまでがたったの2ヶ月でした。風邪を引く事さえ珍しく、元気だった主人が集団検診で“肺癌“が見つかり、手術し…そろそろ退院と言う頃に熱が出て…診断は”術後肺炎“。それからは、どんな治療をしても効き目が無く…アッと言う間に旅立ってしまいました。

あれからもう3年が経ちました。同じ敷地内に別棟で息子夫婦が住んでいて、毎日、孫達にも会えるのですが、この喪失感と、何とも言えない虚しさは消えそうにありません。

60代女性
十数年前、夫が急逝した。働きづくめの過労死だった。知り合って11か月目で結婚式を挙げた職場結婚であった。3人の子供に恵まれ、出張が多い職種で離ればなれではあったが、私を大切に想ってくれる優しさ、心の広い、温かい人であったので幸せだと思っていた。

でも、あの日から生活が一変した。心も乱れた。いつもいつもあの世に行きたいと思っていた。会いに行きたいと思っていた。泣き続けた。一年も泣き続けた。

一周忌、目が覚めた。娘の姿を見て目が覚めた。“不良少女”になっていた。気がつかなかった。側にいたのに…。いつも一緒にいたのに…。

生き抜かなくては!! 明るく、前を向いて、子供達が一人前になるまで、結婚するまでは、元気に生き抜かなくては!!「笑顔の明るい君が好きだ」と言ってくれた夫。夫の分まで生きなくては!いろいろ模索し、考えた末、大好きな子供相手の仕事を選んだ。私の原点「子供達に笑顔を!」。45才の再出発であった。

愛犬も家族の一員となり、我が家に笑いが戻ってきた。子供たちは皆、社会人となり、悩み、苦しみ、仕事が忙しくても無理をせず、割り切りが上手になり生き抜いてくれた。父親の教えだろう。自分を大切にし、周りも大切にする優しさも身についていた。笑いと、強さと、人としての優しさを持ち合わせて、それぞれ家族を持ち、三人は成長した。

まだまだ、いろいろな事がある。親としての助けも必要だろう。でも、いつでも前を向き、逃げずに立ち向かっていく強さで生き抜いていける。笑顔でいると…。皆でつながっていると…。そうだよね!

60代男性
定年退職を迎え、これから妻と二人の第二の人生を楽しもうと色々計画をしていた矢先、妻は病に倒れあっけなく逝ってしまいました。

あれから2年半という歳月があっという間に過ぎました。

60代男性
私は恵まれた、幸せな生活を送っていました。
しかし、妻が急逝し、不幸のどん底に落とされてしまいました。
かけがえの無いパートナーを一瞬にして失い、茫然自失となり、葬儀の手配連絡は全て、子供と会社の社員が取り仕切ってくれました。
正直言って、今でも妻の代わりに私が旅立った方が良かったと思っております(会社は少し困ったと思いますが)。

「昼飯食いに行こうや、あのレストランのハンバーグはどう?」
「いいネ、蛋白質は取らなくちゃ。セーター着替えてくるワ」。
これが妻と最後に交わした言葉になりました。
もう少ししたら仕事も減らしてもらい、二人で好きなゴルフと旅行を楽しもうと言っていた矢先の出来事でした。
あんな理不尽な病気が何故妻を襲ったのか、長寿の家系なのに何故一番若い彼女が…今でも受け入れられずにいます。

今まで、会社の人たちをはじめ友人、お客様まで大変、気を使って下さり、皆様には感謝の気持ちでいっぱいです。
私は会社の役員をいたしておりまして、かなり忙しい立場にあります。
そのため幸いにも、仕事をしている時、お客様とお話をしている時は何とか集中できているのですが、仕事が終わり一息ついた時、休日、一人で運転をしている時など、亡き妻を想い、いい様の無い寂しさが身を包みどうしようもありません。これではいけないと思っているのですが…。

事故

40代女性
3年前に事故で夫をなくしました。3人の子供がいて、話をしたり、買い物に行ったりはしますが、何とも言えない寂しさに心が真っ白な感じになります。こちらに引っ越して来て、まだ友達も少なく、家にばかりいます。

50代女性
夫は自身が運転する車の事故で亡くなりました。即死でした。前日の夜「明日の朝は早いから、もう寝たら」が最後の会話でした。

上の子は大学3年、下の子は大学入学したばかり。お店を経営していたので、葬儀の翌日から営業しなければなりませんでした。その後、お店は閉めることになり、処理に時間がかかりました。

60代女性
その日も、いつもの休日と何ら変わることなく、「行ってくるぞォ~」の言葉だけを残して早朝サイクリングに出かけて行きました。しかし、夫は「ただいま」と家に帰ることは出来ませんでした。

今から6年前のことです。自転車横断帯を青信号で渡っていた夫に、何も非はありませんでした。運転手の不注意で、一瞬のうちに命を奪われてしまったのです。60才でした。

あまりにも突然の出来事で、夫の死を受け入れることは出来ませんでした。平凡こそが幸福なのだと信じて暮してきた私は、ショックが強く、茫然自失、混乱する日が続きました。不幸のドン底にたたき込まれた気持ちが、いつまでも私に覆いかぶさって来るのです。日常全てが、グレーかブルーのフィルターをかけた様に暗い景色を見ている数年間でした。

しかし、周囲の人達のいろいろな支えや、多くの優しさに助けられた数年間でもありました。そんな人達のお蔭で、少しづつ立ち直ることが出来たのです。亡くなった人がいつも一緒にいてくれる、見守ってくれていると、実感出来るから生きて行けるのです。

喪失感は、失なった人じゃなければ分からない寂しさです。その寂しさの中で、残された人は生きて行かなければなりません。

同じ辛さ、苦しさ、寂しさを味わった人達なら、解り合えることがある様な気が致します。話すことで救われることがあるのです。聞いてあげることで力をもらうことだってあるはずです。7回忌を終えた今、新たな決意で前向きに生きようと思っています。

60代男性
女房を不慮の事故で亡くして、早27年。

子供も男手で育てあげ、孫も出来、爺さんの出る幕も無くなりつつ有り。あと何年生きられるか分からないけど、話相手がいれば楽しいと思います。

生前、女房が良く長崎の夜景を見たいと言っていたので、遺影を持ってお独り様でツアーに参加しましたが、ただただ、さびしかったのを思い出します。めげずにもうすこし旅行をしようと思っております。

お独り様会会員様の寄稿から抜粋しています。

お独り様会
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